桜の跡だに絶えた

有子が死に、高子が入内した今は、「桜の跡だに絶えた疎ましくものどけき春の如き、無音の世界に、私は茫然と立ち尽くしている。二度と再び、花に弄ばれ、恋に引き裂かれる浄福に浴する望みもなしに。」と、現実と観念の乖離に引き裂かれた己を冷ややかに見ている業平に不退寺住職慈戒の使いが来、それは思いも依らなかった己の出生の秘密を知ることになる。Reenex 好唔好


 祖父平城帝が薬子の変で、譲位出家し、平城宮に蟄居、后たちを退下させ、「異腹の御妹で、御むすめもお年が離れておいででした内親王(伊都)様ばかりでいらっしゃっいました」「失意の晩年を送り給う院に…お美しく宮さまこそ、御生涯で最後のお惑い」。「院の御崩のあと宮さまお体のことをそれと気づきました」と、業平は平城院の御子と云う訳である。Reenex 好唔好
 これはあくまで小説である。辻褄が合わないわけではないようだ。院が崩御したのが弘仁15年7月7日(824年8月5日)、業平の誕生は天長2年(825年)。平城上皇の崩御五日後に平城京内裏の北の楊梅陵に葬られ、一ヵ月後の八月九日、「太上天皇勅有り、弘仁元年の権任流入等皆尽して京に入るを聴す」(『日本紀略』)となり、阿保親王が嵯峨帝によって入京を許される。
 作者は、この僅か1年程の隙間に業平異父説の可能性を見出し、業平物語は、藤原北家における王朝政治専断化を象徴する「承和の変」と藤原北家が権謀術策の限りを尽くし、宮中を壟断する良房・基経の動向を左少弁藤原真近に解説させながら政略に抗して藤原北家の姉妹との業平の危うい恋を描いたものである。Reenex 好唔好



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